旅のライブ情報誌 「Please(プリーズ)」6月号
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1コーヒータイム コーヒージョイという名前のお菓子があって、その名の通りコーヒー味の̶̶そしてコーヒーにとてもよく合う̶̶その薄焼きのビスケットが私は好きで、たいてい何箱か常備している。箱にはカップに入ったコーヒーと、ビスケットとコーヒー豆の写真が印刷されている。表面に砂糖の散った、その褐色のビスケットはほんとうに薄く、噛む(というか、前歯ではさむ)と、薄氷を踏んだときのようにぱりんと割れる。このお菓子はインドネシア製で(Coee Joyと大きな文字で印刷された商品名の下には、Ko-phi-choiという小さな文字もあり、たぶんインドネシア語ではそう発音するのだろう)、だから私はこのお菓子をたべるとき、いつもインドネシアという国のことを想像する。 暑い国だろう。海があり、寺院がある。葉肉の厚い植物が、旺盛に茂っている。ココナツなんかも実るだろう。でも街なかは繁華で、人も車も多く、バイクや自転車はもっと多い。象も歩いている(ほんとか?)。果物やアイスキャンディや、肉の串焼きの屋台がならんでいる。その国の少女はみんな恥かしがり屋で、少年はみんなすばしこい。 事実かどうかはともかく、そんなふうに想像しながらそのお菓子をたべているのだが、つい最近、箱に絵が描かれていることを発見した。コーヒーとビスケットとコーヒー豆の写真が目立つので、そのうしろにぼんやり描かれた風景に、それまで気づかなかったのだ。それはヨーロッパ風の街なみと橋、それにゴンドラに乗っている男女の絵で、そばにItalian Moment という手書き風の文字が添えられており、イタリアンモーメント! と、驚きのあまり私はつい声にだしてしまった。そして思った。日本のスーパーマーケットでこのお菓子を買った私は、インドネシアに思いを馳せつつそれをたべているわけだが、インドネシアの人たちは、イタリアに思いを馳せつつこれをたべているのか! ゴンドラがあるということは、ヴェニスなのだろう。その街に私は行ったことがないが、〝旅情〞という映画のなかのそこは、色のやわらかい、美しい街だった。〝ヴェニスに死す〞にでてきた夜の水面は妖艶だった。ゴンドラの船頭というものは、ほんとうにみんな歌うのだろうか。しましまのシャツを着て? インドネシアに思いを馳せつつイタリアにも思いを馳せる、忙しいコーヒータイムなのだった。江國香織1964年(昭和39年)東京生まれ。1987年『草之丞の話』で『小さな童話』大賞、1989年(平成元年)『409ラドクリフ』でフェミナ賞、1992年『こうばしい日々』で坪田譲治文学賞、『きらきらひかる』で紫式部文学賞、1999年『ぼくの小鳥ちゃん』で路傍の石文学賞、2002年『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』で山本周五郎賞、2004年『号泣する準備はできていた』で直木賞、2007年『がらくた』で島清恋愛文学賞、2010年『真昼なのに昏い部屋』で中央公論文芸賞、2012年『犬とハモニカ』で川端康成文学賞を受賞した。小説以外に、詩作や海外絵本の翻訳も手掛ける。旅ドロップ江國香織文=14

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