旅のライブ情報誌 「Please(プリーズ)」4月号
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75 1985年12345381 1985年22『太陽の鉛筆』(1975年)の刊行等を経て、平成10年(1998年)に、東松は「終の住処」として長崎への移住を決意した。 移住後の東松は、くらしや祭り、自然、街並み等、あらゆるものを精力的に撮影する。 「私にとって写真とは、表現の手段というより、生活の中に組み込まれた日常性」「シャッターを切ることは、マバタキに近い、身体感覚なのだ」。カメラを携え、町歩きでの撮影を日課とした。 東松の回顧展「Skin of the Nation(国民の皮膚)」(2004〜2007年)が欧米各国を巡回したが、そのタイトルに象徴されるように、写真は表層しか撮ることができない宿命にある。 しかし東松は、町歩きによる「地を這う視点」で、現代の町の表面に現われては消える、海外交流の窓口として、キリスト教布教に始まり、中国、オランダ等1《久松スミエさんとかんざし》 爆心地から600mの竹ノ久保町(現宝栄町)の久松さん一家8人は全員被爆死した。唯一、灰の中から久松スミエさんの遺品のこのかんざしが発見された。 1985年/2008年(2009年)。2《ステンドグラス用の板ガラス》 浦上天主堂傍に住んでいた被爆者でキリスト教信徒であった渡邊モトさんの家の床下よりモトさん没後に発見された。高熱と高圧でプレスされた状態で固まっている。その後浦上天主堂に寄贈された。2000年(2009年)。3《町並み》 長崎市小島町方面1996年(2000年)。4無題 長崎市 出島 2000年(2009年)。5無題 長崎市愛宕 1975年(2009年)。時の地層、時のチャンポンは

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