旅のライブ情報誌 「Please(プリーズ)」4月号
3/32

1三十分間の旅 人にはそれぞれホームグラウンドとも呼ぶべき思い入れのあるデパートがあるのではないかと思う。子供のころからデパートといえばここだった、という場合もあるだろうし、いろいろ行ってみたがここがいちばん性に合う、とわかった場合もあるだろう。自宅や職場から近いので、いつのまにかここばかり利用するようになった、という場合もあるかもしれない。 私にもそれがあり、そこへの偏愛と信頼は揺るぎないのだが、つい最近、たまたま、(たぶん十数年ぶりに)他のデパートに足を踏み入れて、ホームグラウンドではないデパートに行くことは旅とおなじだ、という、我ながらにわかには信じ難い発見をした。 なにしろ、まるで勝手がわからないのだ。エスカレーターがどこにあるのか、レジがどこにあるのか、どんなお店が入っていて、どういうレイアウトになっているのか。よく知っている街のよく知っている建物なのに、内部はとてもよそよそしい。ルールが違うという感じ。私はそこに三十分いただけなのだが、たった三十分でも、なんとなく心細かった。土曜日の夕方で、混雑しており、他の買い物客はみんなここがホームであるように(根拠はないが)見え、侵入者としては肩身が狭く、いや、しかし怯むものか……と気をひきしめた。その緊張感には憶えがあって、旅先のそれだ、と思いあたった。目に入るものがいちいち珍しく、好奇心をそそられるのに、あまりきょろきょろしてはみっともない、と自分を戒めるところも、無闇に迎合するまいとして、ややもすると批判的になりかねないところも、自分がその場に不馴れなことを悟られたくない気持ちも、だからといって馴染むことはできないし、馴染むわけにはいかないのだという奇妙な気持ちも。 私がそこで買おうとしたのは野菜だった(肉も魚も家に冷凍してあるので、もしここで野菜さえ買っておければ、翌日買物に行かなくて済む、というきわめて怠惰な理由からデパートに入った)ので、それがあると表示されている地下三階に降りた。数種類の野菜を選び、ふと見ると、そばに〝茎わかめを刻んで山椒といっしょに炊いた〞という佃煮があり、それも買った(旅先で、私はよく衝動買いをする)。佃煮には、「ほたるこ」という不思議な名前がついていた。なぜ「ほたるこ」なのかわからなかったが、翌朝お粥とたべたそれは、妙においしかった。江國香織1964年(昭和39年)東京生まれ。1987年『草之丞の話』で『小さな童話』大賞、1989年(平成元年)『409ラドクリフ』でフェミナ賞、1992年『こうばしい日々』で坪田譲治文学賞、『きらきらひかる』で紫式部文学賞、1999年『ぼくの小鳥ちゃん』で路傍の石文学賞、2002年『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』で山本周五郎賞、2004年『号泣する準備はできていた』で直木賞、2007年『がらくた』で島清恋愛文学賞、2010年『真昼なのに昏い部屋』で中央公論文芸賞、2012年『犬とハモニカ』で川端康成文学賞を受賞した。小説以外に、詩作や海外絵本の翻訳も手掛ける。旅ドロップ江國香織文=24

元のページ  ../index.html#3

このブックを見る