旅のライブ情報誌 「Please(プリーズ)」6月号
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21画像提供/宮崎県12逸品中の逸品「太陽のタマゴ」 2個入り一箱(約1㎏)、40万円。今年4月16日、宮崎市中央卸売市場で行われた完熟マンゴー「太陽のタマゴ」の初競りでは、昨年と並ぶ、過去最高値が付けられた。 今や宮崎の顔とも言える「太陽のタマゴ」は、全生産量の十数%。糖度15度以上、重さ350g以上、表面の半分以上が鮮紅色という厳しい基準さい と か の だを満たした最高級品のみが名乗れる。くしくも今年は、「太陽のタマゴ」が世に出て20年。公募によって宮崎市内の専門学校生が名付けたこのみやざきブランドは、まずは地元でファンが広がり全国区へと成長した。しかしその道のりは、決して平たんではなかった。 そもそも宮崎でマンゴーが栽培されたのは、40年以上昔にさかのぼる。県の総合農業試験場亜熱帯作物支場で試験的に行われたのが始まりで、農家でつくられるようになるには、さらに10年近い歳月を要した。 きっかけは、西都市鹿野田地区の農家が、ピーマンやキュウリに代わる新しい作物はないか模索していたことにある。そんな折、同地区の金丸敏幸さん、曽我一敏さん、安藤優さんら有志が総合農試亜熱帯作物支場で出会ったのが、マンゴーだった。と言ってもそれは、ハウスの片隅に植えられた、たった3本の苗木。どう見ても金のなる木には思えなかったが、「ハウスミカンの次はマンゴーの時代」と語る案内役の支場長の言葉には説得力があった。 「次はこれ、やっちみろかい」 冗談交じりでだれかが言った。 その場では一笑に付したものの、にわかに本気になった。成功するかわからないけれど、賭けてみよう。それぞれに育ち盛りの子を持つ男たちの英断だった。 幸運なことに、金丸さんたたった8戸の農家で、宮崎県下で最初にマンゴー栽培に取り組んだ、JA西都ハウスマンゴー部会結成時のメンバー。左から、曽我一敏さん、金丸敏幸さん、安藤優さん。「マンゴー栽培は難しく大変だったけれど、挑戦してよかった」と語る。ちが相談を持ち掛けたJA西都の技術員の楯彰一さんも、マンゴーの将来性に着目していた一人だった。すでに沖縄でマンゴーのおいしさに出会っていた楯さんは、いつか宮崎でもつくれたら…と夢見ていたのだ。そこですぐさま行動を起こし、資金や組織づくりにと奔走した。こうして1985年、わずか8戸の農家によるマンゴー部会が結成されたのだった。■昨年4月13日、宮崎市中央卸売市場で行われた初競りの様子。過去最高値が付いた時、場内にどよめきと拍手が起こった。■完熟を間近に控え、ネット掛けされたマンゴー。この収穫法を考案したことで高品質のマンゴーの出荷が可能となり、ブランド化につながった。■ブランド導入当初の平成10年は年間100トンほどだったマンゴーの生産量は、今日では約10倍まで増加している。1,00090080070060050040030020010001,100(トン)■宮崎マンゴーの出荷量の推移H4H7H8H9H10H11H12H13H14H15H16H17H18H19H20H21H22H23H24H25H26H27H28H293かねまるとしゆきまさるそがかずとしたてしょういち123

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