旅のライブ情報誌 「Please(プリーズ)」11月号
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1斜めのコップ 斜めのコップがある。脚のないワイングラスで、円形の底ガラスに直接ついたコップ部分が、三十度くらい傾いている。コック帽をかぶった男性の絵と、Glacier-Expressという文字のついたそのワイングラスは、もう随分前に他界した父の旅先土産だ。スイスの登山列車に乗ったとき、食堂車で使われていたコップだそうで、線路の傾斜とおなじ角度で斜めになっているので、のぼりのときとくだりのときで向きを変えれば、ワインがつねに水平に保たれるというわけだった。おもしろがりだった父はそれを気に入り、車掌さんに頼んで一つ分けてもらったそうで、家に帰ると早速その斜めのコップを家族に見せて、用途を説明してくれた。登山列車になど乗ったこともない私たち家族は話を聞いて、食堂車の様子(どのテーブルにも斜めになったコップが置かれ、赤や白のワインがたっぷり入って水平に保たれている)を想像し、外国の人はしゃれたことをするものだ、と感心した。 が、その後、そのコップが使われたことは一度もなく、旅行土産というものが往々にしてそうであるように、たちまち忘れ去られた。 すこし前にふいに思いだし、探してみると食器棚の奥で埃をかぶっていた。三十年以上、誰にも顧みられずそこにあったことになる。 コップは、洗うと(当然だが)ぴかぴかになり、まったく新品同様で、なんだか奇妙な気持ちがした。ながい時間がたったのに、これを持ち帰った人はとっくにこの世にいないのに、まるでそういうすべてがなかったかのように、コップは変らずぴかぴかなのだ。 赤いワインをついでみた。平らな机に置いても中身は無論水平だが、コップ自体が傾いているので視覚的に不安定で、低い方の縁からいまにもワインがこぼれそうに見える。底ガラスの下に半分だけ本をあてがい、斜めにしたら安定した。わざわざそんなことまでして斜めのコップでワインをのんでいる自分が滑稽に思えたが、元気だったころの父のおもしろがり気質を、ちょっと思いだしたくなったのかもしれない。 誰かが亡くなった場合、その人が生前によく旅をした人だと、残された人たちにはなぐさめになると私は思う。すくなくともたくさんの場所に行き、たくさんのものを見たのだと思える。だから、将来私を見送ってくれる人たちにそう思ってもらうためにもたくさん旅をしたい、と書いたら都合がよすぎるだろうか。江國香織1964年(昭和39年)東京生まれ。1987年『草之丞の話』で『小さな童話』大賞、1989年(平成元年)『409ラドクリフ』でフェミナ賞、1992年『こうばしい日々』で坪田譲治文学賞、『きらきらひかる』で紫式部文学賞、1999年『ぼくの小鳥ちゃん』で路傍の石文学賞、2002年『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』で山本周五郎賞、2004年『号泣する準備はできていた』で直木賞、2007年『がらくた』で島清恋愛文学賞、2010年『真昼なのに昏い部屋』で中央公論文芸賞、2012年『犬とハモニカ』で川端康成文学賞を受賞した。小説以外に、詩作や海外絵本の翻訳も手掛ける。旅ドロップ江國香織文=31

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