旅のライブ情報誌 「Please(プリーズ)」12月号
23/32

生い立ちから蝦夷地測量まで 測量家伊能忠敬は延享2年(1745年)九十九里浜のほぼ中央、上総国小関村に出生。6歳のとき母を失う。若い頃の事績はほとんどわかっていないが、仕事ぶりを見込まれて17歳のとき、親戚の平山家の仲介で下総国佐原村の酒造家伊能三郎右衛門家に婿入りする。妻みちは4歳年上の未亡人だった。 家業に出精し、名家として村政にも寄与したあと49歳のとき隠居する。隠居時の家産は3万両といわれる。 しかし佐原では学問的、あるいは芸術的な業績が無いと、お金があるだけでは旦那とはいわれなかったという。伊能家の先たか はしよし ときくわはらりゅうちょうかずさのくに こ せきえ ぞしもうさのくに さ わら211伊能忠敬旧宅(国指定史跡)。千葉県香取市を流れる小野川に面し、船の便がよかった。2御用旗(国宝・レプリカ)。測量に際して使われた。3中象限儀(国宝)。恒星の高度を測る機器。4垂揺球儀(国宝)。日食、月食等の観測に必要な各地共通の時刻を知らせる、精密な振り子時計。5観星鏡(国宝)。主に夜、星を観測するために使われた。6半円方位盤(国宝)。山岳・島嶼など遠方の目標の方位の測定に使われた。7彎窠羅鍼(国宝)。小方位盤。杖先磁石ともいう。杖の先に磁石をつけて方位を測れるようにしたもの。ジャイロコンパスのように、傾斜地に立てても磁石面は水平に保てるようになっていた。8量程車(国宝)。引いて歩けば歯車の回転数から距離を知ることができたが、固い地面の平坦地しか出番はなかった。(1~8画像提供/伊能忠敬記念館)78546321ちゅうしょうげんぎりょうていしゃとうしょすいようきゅうぎわんからしん※1 伊能図の原本は明治6年に焼失。伊能家から寄贈された副本も関東大震災で焼失したが、その後、国内各地や近年アメリカ、フランスなどで写本が発見され、大図、中図、小図合計225枚が揃った。祖には資産とともに学芸面で事績を残した者もいた。 忠敬は暦学、測量で名を残したかったようで、隠居前に利根川付近で測量実習を行った記録が残っている。 江戸出府に際しては、大坂城警備の同心から寛政の改暦の担当者として天文方に抜擢された、当代随一の天文学者高橋至時の江戸招聘と時期をあわせている。恐らく忠敬の3人目の妻の実父で仙台藩医の桑原隆朝から情報を得ていたのであろう。自分より19歳若い至時に入門すると師弟の礼をとり、経済援助も行ったという。 江戸深川に隠宅を設け、幕府天文方に匹敵する天文台を設置、熱心に天体観測を行う。付近の人たちは天文隠居と呼んだ。 そのようななか、天文方における講義や討論のなかで至時が地球の大きさ、つまり緯度一度の距離を知りたがっている事を知る。浅草の幕府天文台と深川の伊能天文台の緯度の差は分かっていたので、2点を含む経路を概測して距離を求め、師匠に提出したらしい。至時は、浅草と深川の間の距離を測って地球の大きさを決めても説得力がない、やるとしたら、蝦夷地くらいまで測って緯度一度の距離を決めるなら、学問的業績となるだろうと、手順も含め指導したのだろう。 学問的業績になるなら、ぜひ自分の力で実現しようと、江戸から北海道の西別まで往復3、200キロ、180日の測量の旅に出かける。一行6人の経費は百両、幕府の手当は約2割だった。資金は自前でもよかったが、命令が無ければ諸侯の領地を勝手に測ることはできなかった。この後8回の遠国測量を行う。

元のページ  ../index.html#23

このブックを見る