旅のライブ情報誌 「Please(プリーズ)」12月号
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222212かげやすみそかる る 九州を測ったのは第7次・第8次の測量だった。7次測量は文化6年(1809年)8月に江戸をたち、山陽道の街道を測って12月、小倉に着いて越年した。 九州東海岸から大隅半島を一屋久島、種子島測量の強行を含む2回の九州測量第8次測量ルート図文化8年(1811年)11月~文化11年(1814年)5月第7次測量ルート図文化6年(1809年)8月~文化8年(1811年)5月34桜島津久見(鳩浦)天草高浜甑島日向屋久島種子島福江島延岡五島列島壱岐平戸対馬周し文化7年6月、鹿児島城下に着く。忠敬と下役の坂部は鹿児島で天測。他の者たちに櫻島一周と周囲の小島を測らせる。この頃、櫻島は完全な島だった。鹿児島の目の前の小島までの測量は薩摩藩も不快だったろう。 屋久島・種子島へは渡海困難と藩の付廻り役人野元嘉三次から、縷々説明させたと思われる。忠敬も大変ならやめようとの話し合いの上で出発していたので納得した。念のため、上司の高橋景保(至時の長男。至時は過労のため文化元年死没。天文方は景保が継ぐ)に申請したが幕閣はこの際見届けよと、景保の上申を却下。忠敬も驚いたろう。しかし、病人もいたため出直したいと願い、薩摩半島沿岸と天草・肥後沿岸から阿蘇を横切って江戸へ引き揚げる。 薩摩藩は大騒ぎだった。付廻り役を忠敬の後を追って江戸に向かわせ、日程調整にあたらせた。屋久島などへの渡海に最適な時期を選んで第8次測量に出発、小倉着は文化9年1月だった。鹿児島には3月着。山川湊で風待ち後、屋久島、種子島に渡る。その後、北上して九州北部を濃密に測量する。 平戸藩では、西国測量が行われると知った藩主の松浦静山が、自藩に関する伊能図の入手を希望したという。文化10年(1813年)正月晦日、平戸城下白岳付近で時の藩侯が測量風景を視察。忠敬は死に先立ち弟子に平戸藩向け伊能図制作を遺命、上司の景保から平戸藩に謹呈された。松浦史料博物館に現存する。伊能測量隊の足跡をたどるデジタルスタンプラリー「伊能でGo」は、全国約3,200カ所の宿泊地を体験できる無償のスマホアプリ。12伊能忠敬測量日記(国宝)。忠敬は測量の途上、日記をつけていた。清書本・測量日記は28冊からなる。(画像提供/伊能忠敬記念館)3「伊能忠敬御手洗測量之図」。文化3年(1806年)、伊能忠敬が御手洗柴屋種次宅に宿泊、大崎下島の海岸線の測量の様子。左の黒の陣笠、黒い着物、黒脚絆の人物が伊能忠敬(矢印)。測量している様子を描いた実写図で伊能忠敬の姿が特定できる唯一のもの。(画像提供/呉市)4文化9年の第8次測量では、平戸藩領南端の針尾島(現・佐世保市)、九十九島(佐世保市)、平戸島を測量。平戸島測量時には、平戸島北部にある白岳において、10代藩主松浦熈が測量風景を見学。(画像提供/松浦史料博物館)ひろむみたらいしばやたねじ

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