旅のライブ情報誌 「Please(プリーズ)」12月号
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23参考文献/『伊能忠敬測量隊』 渡辺一郎編著 小学館、『図説 伊能忠敬の地図をよむ』 渡辺一郎・鈴木純子著 河出書房新社、『伊能図大全』 全7巻 渡辺一郎監修 河出書房新社78101291165いえ なり 第8次測量のあと、文化12年(1815年)に伊豆諸島を測った第9次測量が行われたが、忠敬は高齢のため参加しなかった。同じ年に第10次測量となる江戸府内概測があり、忠敬も出役したが、翌年の細測は監修のみだった。幕府提出の108年後まで利用された伊能図 これより前の第7次と第8次の間、忠敬は間宮林蔵と8回会談し、第1次の蝦夷地測量の未測部分の測量を間宮に委嘱した。 文化14年10月、間宮はデータを持参し帰府、隠宅に泊まり込んで報告。 文化15年4月、忠敬は伊能図の完成を見ることなく、八丁堀の地図御用所(隠宅)で73歳の生涯を閉じた。 地図制作は高橋景保の指導の下で内弟子、下役に引き継がれ文政4年(1821年)大日本沿海輿地全図(大、中、小図で構成)にとりまとめ、幕府に提出された。 40年後の1861年には、日本沿岸の測量に来た英国測量船隊に小図が見せられる。司令のワード海軍中佐はその正確さに驚き、譲り受けて、この小図をもとに1863年に英国海図の日本部分を改訂した。伊能図の水準が英国海図のレベルに到達していたのだ。 シーボルト事件では、国禁の伊能図を天文方景保がひそかに渡し獄死したといわれているが、私は少し違うと思う。伊能は生前に伊能図出版の意図を持っていたことなどから国禁ではなく、政争であったと考える。伊能測量の時期は、洋学派が優勢で景保は主流だった。将軍家斉が、老中首座松平信明の死去を機会に派閥を乗り換えた政争と考えると、不合理な話も納得がゆく。 だが、伊能図そのものはしっかり評価され、明治初年あたりから三角測量による近代図で国土がカバーされるまで、暫定的な実測図としてその骨格が利用された。伊能図による暫定図がすべて姿を消すのは昭和4年(1929年)で、上呈の108年後であった。5大日本沿海輿地全図 小図 本州西南部(写本)。伊能小図は正本は残っておらず、この図は阿部正弘が執政だったとき、天文方に命じて写させたものという。(画像提供/東京都立中央図書館特別文庫室)6フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。(画像提供/シーボルト記念館)伊能大図 長崎 部分(画像提供/松浦史料博物館)7伊能忠敬肖像画。測量隊員青木勝次郎の筆とされる。(画像提供/伊能忠敬記念館)8九州測量の始発点、小倉の常盤橋の伊能忠敬測量記念碑。9九十九島の船越展望所にある「伊能忠敬の測量図」。南九州市の番所鼻自然公園の碑。忠敬が「けだし天下の絶景なり」と称賛した。秋月街道豊前香春宿の伊能忠敬止宿の碑。千葉県香取市の原付バイクのナンバープレートには伊能忠敬が。よち

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