旅のライブ情報誌 「Please(プリーズ)」1月号
23/32

2153124日本初参加のオリンピックのマラソンの記録は、なんと54年8カ月6日5時間32分20秒3 2019年の大河ドラマは、「いだてん〜東京オリムピック噺〜」。物語前半の主人公は、日本初のオリンピック選手となった、熊本県出身の金栗四三だ。  彼は第5回ストックホルム大会をはじめ、4度のオリンピック出場のチャンスを得るものの、その選手人生は失敗と挫折の連かな くり し そうさんたんすさばなしや ひこがく ぜんもう ろう4昭和42年(1967年)、スウェーデンのオリンピック委員会からオリンピック開催55周年を記念する式典に招待されゴールテープを切る金栗四三。554年後にストックホルムを訪れた時の様子。※夏季オリンピックはこれまで32回の開催回数となる。そのうち3回が戦争で中止となったが、回数にカウントされる。  冬季オリンピックは23回のうち2回が中止されたがこちらはカウントされないため、開催回数は21回となる。画像提供/20ページ、21ページ2~5玉名市立歴史博物館こころピア続だった。とりわけストックホルム大会では途中で落伍したため、長い間、開催国のスウェーデンで「消えた日本人ランナー」と語り草になるのである。 明治45年(1912年)5月、2人の日本代表――四三と短距離走の三島弥彦は、敦賀港からストックホルムへと旅立った。現地での調整時間を十分に配慮しての出発だったが、実際は白夜に悩まされ、体格のいい外国人選手への劣等感や予想外の暑さ、同行した監督の病状の悪化など惨憺たる状況のもとで、レース当日を迎えるありさまだった。 四三の出場したマラソン競技には68人が参加した。当初は19カ国98選手が出場予定だったが、レース前から暑さにやられて脱落者が相次ぎ、完1日本が初めてオリンピックに参加した第5回ストックホルム大会のポスター。五輪のマークがポスターに登場するのは第9回大会から。 2オリンピック国内予選後に撮影された写真。右が金栗四三。3日の丸を掲げオリンピック開会式の入場行進をする日本選手団。旗手は短距離の三島弥彦、プラカードを持つのが四三。出場選手はこの2人だった。走したのはわずか34人という過酷な展開となった。そうした中、四三はスタート時こそ最後尾に追いやられるものの、徐々にリズムを取り戻し、8キロあたりまでは元気に走った。しかし、日陰でも30度以上という猛暑。10キロ以降は意識も朦朧となり、歩いたり走ったりの状態で、ついに折り返し地点を過ぎた所でダウン。気がついた時には、近くに暮らすペトレ家で介抱されていた。やがて回復した後も、四三は競技場へは戻らずにそのままホテルへ帰った。棄権届を競技本部に出すことなく帰国したため、くだんの「消えたランナー」騒動に至ったのである。 帰国後の四三へのバッシングは凄まじかった。しかしこの事態を一番悔やんだのは本人である。何としてでも4年後のベルリン大会でこの屈辱を晴らさねば、と猛然と奮い立ち、厳しいトレーニングを重ねる。だが悲運にも、待望の第6回ベルリン大会は、第1次世界大戦の影響でまさかの中止。愕然としながらもさらに臨んだ大正9年(1920年)の第7回アントワープ大会では、力を出し切れず16位。それでも諦めずに出場した第8回パリ大会では、再び途中棄権と、思うような結果を残せないまま終わるのだった。 ところが、ストックホルム大会から54年後の昭和42年(1967年)のこと。75歳の四三のもとへ、スウェーデンのオリンピック委員会から思いがけない手紙が届く。それは「オリンピック開催55周年記念イベント」への招待状だった。※

元のページ  ../index.html#23

このブックを見る