旅のライブ情報誌 「Please(プリーズ)」1月号
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221423 手紙の内容は、「ストックホルム大会のマラソン競技を完走してほしい」というものだった。 委員会によれば、54年前の7月14日に競技場を出発して以来、四三はいまだどこかを走り続けていることになっている。それを完了させたいのだという。  もちろん、四三は喜んで訪ねた。そうして式典の日、革靴姿で10mほどゆっくりと走ると、用意されたゴールテープを切った。その時、スタジアムに流れたアナウンスがふるっている。 「日本の金栗四三選手、ただいまゴールインしました。タイム、54年8カ月6日5時間32分20秒マラソンとの出会いさ さ ごな ご みれいめいか のうろうじ ご 3大正9年(1920年)、第1回箱根駅伝のゴールシーン。4昭和4年に発売されたグリコの2代目ゴールインマークは谷三三五や金栗四三など、当時の多くの陸上選手らのゴールイン姿をモデルにしている。1玉名中学4年の時。2大正3年(1914年)四三、22歳の時に親戚だった玉名郡小田村(現玉名市上小田)の池部家の養子となり、春野スヤ(写真左)と結婚。6人の子どもに恵まれる。画像提供/126玉名市立歴史博物館こころピア、3読売新聞社、4江崎グリコ株式会社、5朝日新聞社、78玉名市3。これをもちまして第5回ストックホルム・オリンピック大会の全日程を終了します」と。 万雷の拍手の中、四三もこう答えた。「長い道のりでした。この間に、孫が10人できました」 こうして何とも小粋な世界最遅記録が達成されたのである。 明治24年(1891年)8月20日、四三は熊本県玉名郡春富村中林(現・和水町)で、8人兄弟の四男として生まれた。 家は代々酒造業を営む名家だったが、病気がちな父の代で閉め、長男の実次が農業と役場勤めで支えた。四三もまた体が弱く、どちらかといえば運動は苦手な子。ただ勉強はよくでき、家から6キロ離れた高等小学校へ毎日走って通ううちに持久力もついたらしい。玉名中学校(現・玉名高校)進学後は、毎週末に寄宿舎から約20キロを走って帰省した。 卒業後は、兄の勧めで東京高等師範学校(現・筑波大学)へ。そこで出会ったのが校長の嘉納治五郎である。「講道館」を設立し近代柔道を拓いた嘉納は特に体育教育を重視し、年に2回、長距離走大会を実施。徒歩部に入った四三はめきめき頭角を現しやがて学内に敵なしとなるのだった。 ちょうどそのころ、日本にオリンピックへの参加話が持ち上がった。そこでアジア初のIOC委員となった嘉納は「大日本体育協会(現・日本体育協会)」をつくり、自ら初代会長になると、ストックホルム大会を翌年に控えた11月、国内初のオリンピック予選会を開くのである。 中でも注目を集めたのが、40キロレースだった。マラソンという言葉が国内で使われるようになって間もないころの話である。四三も腕試しにと出場すると、悪天候にもかかわらず堂々1位に。たった一度の走りだったが、オリンピックに出るよう嘉納から言い渡されるのである。 しかし、当の本人は「自分には荷が重すぎる」と辞退した。とても金メダルを取る自信がないと言うのである。それでも嘉納は四三を見込んでこう言った。 「勝ってこいというのではない。最善を尽くし、欧米に大きく遅れた日本のスポーツ界のために、黎明の鐘になってくれ」。その言葉は終生、彼の中に宿り続けた。

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