旅のライブ情報誌 「Please(プリーズ)」2月号
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ぜんけん こ じつべいさい佐賀からパリを目指す 明治2年(1869年)、岡田(旧姓石尾)三郎助は現在の佐賀市八幡小路に生まれた。明治4年、佐賀藩10代藩主鍋島直正が死去、この年三郎助は数え年3歳で父石尾孝基に伴われ上京した。石尾家は、三郎助が7歳から12歳頃まで永田町の鍋島侯邸の長屋に暮らすことになる。画家志望の三郎助への助言はもっぱら、すでに洋行経験があり、後に官選知事となる母方の叔父中野健明によるひゃくせいきたけ かねゆきはちまんこうじたかもとたけあき211黒田清輝。岡田は外光派を学んだ黒田からじかに絵の指導を受けた。2ラファエル・コラン。岡田はコラン最良の弟子。3パリのアトリエ。左から和田英作、岡田、久保田米斎。明治31年頃 油彩・画布 45.5×38.0cm 佐賀県立美術館蔵 留学初期、コランのもとで緑陰の中の人物表現を学んでいた頃の作。とくに苦心したのは顔の中の黄色の使い方だったという。213西洋婦人像矢調べものであった。6人兄姉の末っ子三郎助は、母親からは「さぶちゃん、さぶちゃん」と随分とかわいがられたという。絵との出合いは、鍋島邸内で目にした同郷の百武兼行が描いた油絵。百武は生涯のほとんどを外交官として欧州で過ごし、公務の傍ら西洋画を学び本格的な裸婦像を日本人として初めて描いた画家として知られる。明治10年代は洋画が人々の関心を集める一方、伝統美術の復古的な風潮が高まり、しだいに洋画家たちは苦難を強いられることになる。 こうした時代、三郎助は19歳のとき岡田家の養子となり、絵画修業は、明治初期の美術教育を終えた曽山幸彦の画塾に通うことになった。岡田は、皆が朝には出席し勉強している中、昼の弁当時にのっそりやってきて画架に向かうという至ってのんき明治26年 油彩・画布 72.5×105.0cm 佐賀県立美術館蔵画塾大幸館卒業制作。第6回明治美術会展に出品。モデルは画塾に立ち寄った針売りの老人というが、画題の由来は菊池容斎の『前賢故実』からと思われる。な性格であった。またなにかしらハイカラな文芸誌を懐にし、他の塾生とはひと味違ったものが漂っていた。曽山のもとでは素描中心に学び、画塾を引き継いだ堀江正章によって初めて色彩についての教えを受けた。色彩に対する彼のデリケートな感覚はこの時期に目覚めたと言える。画塾の卒業制作《矢調べ》は、明治20年代までの暗褐色系の色を基調としているが、その後フランス帰りの黒田清輝との出会いによって印象派風の明るい絵具の使い方を教わることになる。29歳の時、第1回文部省留学生として渡仏し4年半の間、黒田が師事したラファエル・コランのもとで学ぶ。コランは、庭に注ぐ直射光を白布で遮り「自然のアトリエ」に変え、柔らかな光と緑の中で裸婦を中心に絵画制作を行っていた。この緑陰の婦人像は岡田の主要なテーマとなるが、自然の穏やかな光の効果や色彩の微妙な変化の中で穏和な人物表現を行った。画像提供/1東京文化財研究所、3佐賀県立美術館

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