旅のライブ情報誌 「Please(プリーズ)」2月号
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22132パリから帰国そして結婚へこ ぎれあごまとば らお さ ないかおるほころし な1明治42年頃、新築のアトリエで語らう八千代夫人と三郎助。2チャイナドレスでポーズをとるモデル。3《婦人半身像(下絵)》(昭和11年、佐賀県立美術館蔵)。完成作は岩絵具で描かれた文展最後の出品作。下絵はパステルで描かれ、明瞭で力強い輪郭線が姿態を引き締めている。 明治35年(1902年)帰国後は、東京美術学校で西洋画の授業を担当した。教場の岡田は、頰から顎にかけてひげをたくわえた風貌が近寄りがたい印象を与え、その指導は欧風趣味を感じさせるものであった。学生の作品を批評するときは、大方が「悪くありません」であり、よほどの出来でない限りは佐賀弁で「よくでけました」とは言わなかったという。またごまかし仕事に対しては仮借なく叱責し、他方懸命さが見られる作品には懇切な指導を惜しまなかった。 留学時からの「装飾」への強い大正5年 油彩・画布 197.0×76.2cm 石橋財団ブリヂストン美術館蔵水辺の裸婦が見つめる先に悲恋の花、松虫草を描く。ブリヂストンの創業者石橋正二郎邸の玄関を飾った。岩場のある森は秩父鉄道開通間もない長瀞渓谷でのスケッチ。水浴の前横向きの少女薔薇昭和6年 油彩・画布 45.5×37.9cm 佐賀県立美術館蔵 フランス製花瓶に盛られた彩り鮮やかな薔薇が、虹色を薄く広げたような背景に映える。色が見え過ぎるとまで言った岡田のまさに色感あふれる世界。大正3年 油彩・画布 45.2×37.7cmウッドワン美術館蔵 横顔はしばしば描かれたモチーフ。愁いを含んだ横顔と流れるような髪を、襟首の粗いタッチや余白を残した背景が引き立てている。関心は古裂や染織品の収集となっていった。これらはモデルが身に纏ったり、絵の背景の壁掛け用など、作品制作の材料とするためであった。そして一連の婦人像が描かれるのが明治40年代のことで、まず明治40年(1907年)の東京勧業博覧会で1等賞を受賞した《婦人像(某夫人の肖像)》(20ページ)をはじめとして、同年秋に第1回が開催された文展(文部省美術展覧会、後の日展)に次々と婦人像、裸婦像を発表していくことになる。この40歳代という充実の年代を迎えるにあたって、明治39年、近代演劇の旗手小山内薫の妹で小説家の八千代と結婚する。仲介役は森鷗外の母峰子が果たした。やがてこの結婚は大正時代に入り、夫人をモデルにした2点の作品、大正3年(1914年)の《縫いとり》の温かみある室内画から、同9年の八千代の寂しげな表情を見せる《支那絹の前》までの数年の間に、二人の関係はしだいに綻びが生じていくのである。ながとろ参考文献/『岡田三郎助1869-1939』(佐賀偉人伝3)松本誠一著/佐賀県立佐賀城本丸歴史館、『岡田三郎助―エレガンス・オブ・ニッポン―』特別展図録/佐賀県立美術館 ほか

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