旅のライブ情報誌 「Please(プリーズ)」4月号
23/32

213412 旧グラバー住宅と旧オルト住宅に挟まれて、国指定重要文化財の旧リンガー住宅が南山手の高台から長崎港を見渡す。この建物を自宅としていたフレデリック・リンガーは1838年、食料商人の三男としてイングランド東部の街ノーリッジで生まれた。二人の兄ジョンとシドニーはその後出世し、それぞれ上海共同租界の先駆者と「リンゲル液」を開発した医科学者として歴史に名を残す国際貿易の大黒柱1若き日のトーマス・グラバー。2グラバー園にある、明治元年に建てられた旧リンガー住宅は独特な和洋折衷の木骨石造り。3銅版画に見る江戸期の出島と長崎港。長崎外国人居留地の南山手居住区はその後、左奥の丘陵地帯に開設される。4本河内高部ダム。リンガーとイギリス人技師J・W・ハートの協力のもと、日本初の近代水道ダムとして明治24年に完成。こととなった。 フレデリック・リンガーは、中国でお茶の鑑定士として活動中に、トーマス・グラバーに誘われて1865年(慶応元年)に長崎へ移住し、グラバー商会による日本茶の輸出を担当した。当時、九州各地から集められた茶葉の多くは中国茶と混ぜられ、紅茶としてヨーロッパへ運ばれていた。 1868年(明治元年)、リンガーはグラバー商会を離れ、同年まで鹿児島紡績所で働いていたエドワード・Z・ホームと共に「ホーム・リンガー商会」を長崎居留地に設立。ホームは間もなく帰国したが、リンガーは社名を変えず、倒産に追い込まれたグラバー商会の茶貿易やその他の事業を引き継ぎ、多角化しながら長崎の国際ビジネスを牽引する存在にまで上り詰めた。 ホーム・リンガー商会による輸出品は、茶葉をはじめ、木材や米といった日本の産物に集中し、輸入品は機械類、建築資材から板ガラス、灯油、ウイスキーや氷に至るまで、広範にわたった。ロイド船級協会やカナダ太平洋鉄道会社など、数十社に及ぶ保険および海運会社の代理業も手がけていた。 リンガーは新技術の導入にも取り組んだ。1886年(明治19年)、長崎の慢性的な飲料水不足と衛生問題を解決するために、上海の水道建設を指導していたイギリス人技師J・W・ハートを長崎に招き、貯水用ダムを含む水道施設用の適地を探すために周辺地域を調査させた。ハートの提案を採用した長崎県は、郊外の本河内で水道工事に着手。1891年(明治24年)に完成した長崎水道は、横浜と函館に続く3番目の近代水道として給水を開始した。さらに、リンガーは自社の事務所から小曽根町の三菱炭坑事務所まで電話線を架設したり、イギリスから輸入した製粉機械と、三菱長崎造船所でつくられたエンジンを組み合わせた製粉工場を設立したり、話題を呼んだ。画像提供:20ページ/フレデリック・リンガー=グラバー園、ほか2点=ブライアン・バークガフニ、1長崎大学附属図書館、34ブライアン・バークガフニけんいん

元のページ  ../index.html#23

このブックを見る