旅のライブ情報誌 「Please(プリーズ)」4月号
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22ホーム・リンガー商会ナガサキ・ホテルグラバー住宅(現在の旧グラバー住宅)南山手2番館(現在の旧リンガー住宅)南山手14番館(現在の旧オルト住宅)13452 リンガーは貿易港として下関と門司にも着目していたが、長崎のように条約港に含まれていなかったために開業できないでいた。そこで彼は、1890年(明治23年)、友人の瓜生寅の協力を得て、実質上ホーム・リンガー商会の支店である「瓜生商会」を下関に設立してハードルをクリアした。 明治30年代に入ると、長崎は停泊港および給炭港として未曾有の発展を遂げた。ホーム・リンガー商会は社員を増やし、日刊の英字新聞「ナガサキ・プレう りゅうはじめ5リンガー夫人と子どもたち。(左から)次男シドニー、カロリーナ夫人、長男フレディー、長女リーナ。1900年(明治33年)ごろ。ス」を創刊し、輸入灯油を貯蔵する大きなタンクを長崎港の入り口に設置するなど、好景気を謳歌していた。 リンガーが最も信頼していた従業員の一人は倉場富三郎であった。トーマス・グラバーと日本人女性の間に生まれた彼は、アメリカ留学を経て1894年(明治27年)にホーム・リンガー商会に入社し、「グラバー」をもじった「倉場」の姓を正式に名乗った。彼の重要な業績の一つは、汽船漁業を立ち上げて日本に初めて蒸気トロール船を取り入れたことである。このころ、ホーム・リンガー商会は捕鯨にも活動範囲を広げ、オルガ号など最新鋭のノルウェー式捕鯨船を日本に導入した。 ホーム・リンガー商会の拡大に伴って従業員が増えると、リンガーはイギリス人には洋服を、そして日本人には和服を着るように会社内のルールを設けた。リンガーにとって、自国のアイデンティティを固持することは差別ではなく秩序であった。彼が当時としては珍しく、イギリス人にも日本人にも給料を同等に支払ったこともその信念の表れだろう。 リンガーは、アジア太平洋地域各港の豪華ホテルに匹敵する宿泊施設を長崎に建てたいという夢を抱いた。1898年(明治31年)9月、下り松(現在の松が枝町)の海岸通りに竣工した「ナガサキ・ホテル」は、彼の希望どおり、華やかな3階建ての煉瓦造りに客室50室、125名を収容できるダイニングルーム、フランス人料理長、高級な輸入家具類、日本初の全室電話、自家発電所などを備えていた。各新聞社が「東洋一のホテル」と称賛す1学生時の倉場富三郎。2下関にホーム・リンガー商会の支店を代理で開設した瓜生寅。3東洋一と賞賛されたナガサキ・ホテルは、1927年(昭和2年)に取り壊された。左の香港上海銀行長崎支店の建物は現存。4 大浦海岸通りから長崎市街地方面を望む大正期の絵はがき。建物は(手前から)ホーム・リンガー商会事務所、長崎英国領事館(現存、保存修理中)、長崎米国領事館。夢のホテルリンガー家が永代借地権を保有していた地域(明治32年当時)…

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