旅のライブ情報誌 「Please(プリーズ)」4月号
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23689107参考文献:『リンガー家秘録 1868ー1940』ブライアン・バークガフニ著/長崎文献社画像提供:17長崎歴史文化博物館、2国立国会図書館、35689ブライアン・バークガフニ、4グラバー園8戦後に長崎を訪れたシドニー・リンガー夫妻とホーム・リンガー商会の元従業員たち。9晩年のシドニー・リンガー。北九州市門司区のレトロ地区にある現在のホーム・リンガー商会ビル。るほどであった。 しかし、長崎の黄金時代は長くは続かなかった。日露戦争後、宿泊客も貿易額も急下降をたどり、ナガサキ・ホテルは開業からわずか10年の1908年(明治41年)に閉鎖を余儀なくされた。心臓病を患いながら、リンガーはその前年にノーリッジへ帰り、故郷のホテルの一室でこの世を去った。享年69。 フレデリック・リンガーの息子たち、フレデリック(フレディー)とシドニーはイギリスの寄宿学校を卒業して帰崎し、ホーム・リンガー商会の後を継いだ。二人ともイギリス人女性と結婚して子宝に恵まれた。フレディーは父親が1903年(明治36年)に購入していた南山手14番館(現在の旧オルト住宅)に入居し、シドニーは自身の生家であり「NIBAN」という愛称で呼んでいた南山手2番館(現在の旧リンガー住宅)に居を構えた。 その後、第1次世界大戦、世界恐慌や日本の軍備拡大が続き、入港船数と外国人人口の減少に伴って長崎は国際貿易港としての役割を失い、ホーム・リンガー商会の業績も縮小の一途をたどった。多くの外国系企業が日本を去るなか、リンガー兄弟および成人となったシドニーの息子二人は、一家の業務全体に「瓜生商会」の名を使って険悪な状態を回避しようとした。しかし、1940年(昭和15年)、フレディーは自宅で病に倒れ56年の人生を閉じ、同年秋、シドニーは会社6ホーム・リンガー商会所有の捕鯨船「オルガ号」は右舷に小型鯨を縛って航行している。7汽船漁業の第1号トロール船「深江丸」。の看板を下ろして家族と共に上海へ逃れた。 戦時中を上海の日本軍の集団生活所で過ごしたシドニー・リンガー夫妻は、1951年(昭和26年)にやっと長崎に戻ることができた。ホーム・リンガー商会はその翌年、北九州の門司港で元従業員たちの努力によって再開したが、リンガー家は新しい事業にほとんど参加しなかった。シドニーは長崎や下関における財産を次々と売却し1965年(昭和40年)に南山手2番地の自宅を長崎市に売って帰国し、2年後に息を引き取った。享年76。 現在、長崎の観光名所グラバー園に重要文化財として保存されている二軒の旧宅、また「藤原義江記念館」として活用されている下関の旧宅は、リンガー家とホーム・リンガー商会の物語をささやき続けている。戦後のホーム・リンガー商会第二世代

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