旅のライブ情報誌 「Please(プリーズ)」6月号
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1912345いい ぬま よく さいほん ぞうむつ さぶ ろうほ あし ばん りきつきひじやま もと ぼう よう幕末日本の三大本草学者の一人4帆足万里像。(画像提供/日出町観光協会)5『大和本草』は、1709年(宝永6年)に貝原益軒が出版したもので、日本本草学の出発点となった本草書。中国医学に付属した薬物学として日本へ伝わった本草学は、江戸時代、あらゆる産物や自然現象を研究する博物学へと展開した。(画像提供/国立国会図書館)1スズムシバナ写生図。2カガブタ写生図。3ビヨウヤナギ(左)・キンシバイ(右)写生図。飛霞は、わずか1歳で父を失った。江戸時代、幼い子どもにとって父親がいないということは周囲から仲間はずれにされる原因になっていた。このため、幼少期には一緒に遊ぶ子どもがいなかったといわれ、ひとり地面に草花などの絵を描きながら過ごしていたと伝えられている。彼の写生技術はこのような、幼い頃の辛く苦しい経験を通して自然と身についたものだったのかも知れない。現存する最も古い写生図は、1828年(文政11年)、つまり12歳の時に作成したもので、ビヨウヤナギとキンシバイを描いたものである。まだ未熟さが垣間見えるものの、明確な輪郭線と濃淡を意識した色彩表現には、少年飛霞の優れた写生技術がうかがえる。この写生図を見る限り、12歳以前からくり返し植物を描き込んでいたことがわかる。 賀来飛霞は、美濃の飯沼慾斎、尾張の伊藤圭介とともに、幕末日本の三大本草学者の一人に数えられている医者、本草学者である。江戸時代には島原藩の飛び地であった豊前宇佐郡佐田村(現在の大分県宇佐市安心院町)の賀来家の出身で、睦三郎、睦之とも名乗り、本草学者らしく百花山荘と呼ばれた。 飛霞は1816年(文化13年)、父が医業を開いていた現在の大分県豊後高田市高田(江戸時代は島原藩の飛び地)で生まれた。翌年、父が病死すると、わずか1歳で母の実家があった杵築へ移り住む。その後、5歳になると、亡き父と交流の深かった日出藩の儒学者帆足万里のもとに入門して医学と本草学を学び始めたという。 このうち、彼の関心は本草学に向けられたようで、1834年(天保5年)には京都へ遊学し、当時の京都本草学派の中心人物であった山本亡羊に師事した。亡羊のもとで、現地調査にもとづく本格的な本草学の手法を学んだ飛霞は、九州はもちろん近畿、東北、北陸・甲信越の各地方を巡って、多くの調査記録や色彩豊かな動植物写生図を残している。

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