旅のライブ情報誌 「Please(プリーズ)」5月号
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17ながさきそうちょうえずはらじょう343長崎惣町絵図。江戸町、および出島(中央の部分)の敷地。4嶋原陣図御屏風(戦闘図)。島原・天草一揆における原城での戦闘の様子が具体的に描かれている。その後任に側近の寺沢広高を任じ、広高は長崎奉行と呼ばれていた。長崎奉行の初代を誰とするかについては諸説あるが、一般的には広高が初代とされている。江戸幕府も同様に長崎を直轄地とし、寺沢広高の後任の小笠原一庵以降、主に旗本を長崎奉行に任じた。 長崎奉行について概要を示すと、その職務は都市長崎の行政・司法をはじめ、西国一帯のキリシタンの取り締まりや、異国船が来航した際の警備の指揮、貿易の監督、抜け荷(密貿易)の取り締まりなど、多岐にわたる。その定員は少ない時で1人、多い時で4人と時期によって変動し、また長崎在勤だけでなく、江戸在府の奉行が置かれ、年に一度交代していた。奉行に就任した総数は数え方にもよるが、1868年(明治元年)までに126名に上るとされており、在任期間は平均して4年程度と短く、頻繁に入れ替わっていた。その収入も時期によって異なるが、基本収入である役料・在勤料に加え、副収入として御調物(輸入品を安く買い、京都や大坂で数倍の値で売って利益を得る)や八朔銀(八月朔日に長崎の地役人や商人、唐人やオランダ人から贈られる)などの役得があり、短期間に莫大な収入を得ていたと考えられている。ただ、その分仕事は多忙であり、特に島原・天草一揆以後の国際的な緊張状態により、さらに激務となっていく。お がさ わら いち あんてら さわ ひろ たかつい たちさく ぎんはっおととのえものいっ き江戸時代、長崎の町を治めたのが長崎奉行である。長崎奉行は江戸幕府から派遣された遠国奉行の一つで、長崎で執務をとった場所が長崎奉行所であった。長崎歴史文化博物館研究グループ 研究員文=大塚俊司 矢田純子Text by Shunji Otsuka&Junko Yada

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