旅のライブ情報誌 「Please(プリーズ)」5月号
20/28

18画像提供/16・17ページ13長崎歴史文化博物館、2公益財団法人鍋島報效会、4朝倉市秋月博物館18・19ぺージ1~68長崎歴史文化博物館、7公益財団法人鍋島報效会、9長崎県教育委員会島原・天草一揆と長崎奉行さかきばらもとなお しゅうもんあらためちょうけん ぶんとお やま かげ くに(※)かげ もとば ば とししげ12345675長崎に不法侵入したイギリス船・フェートン号。6外交交渉のため、数度にわたり長崎に来航したロシア使節・プチャーチン。7海防力強化のため幕府が長崎奉行所西役所内に1855年(安政2年)に設置した海軍教育機関・長崎海軍伝習所。 1637年(寛永14年)、島原・天草一揆が勃発した際には、当時の長崎奉行榊原職直・馬場利重も幕府軍に加わり、一揆勢が立てこもる原城の攻撃に従軍している。この時の2人の役目は、幕府から派遣された軍目付であり、動員された諸大名の勢を監督するのが任務だった。ところが、榊原が担当した佐賀藩の軍勢が規律を破って抜け駆けをしてしまったため、榊原は責任を問われて奉行を解任され閉門の処分を受けることとなる。これを機に長崎奉行は、2人のうち1人が長崎、1人が江戸に在勤して隔年で交代し、一方が長崎に常駐するという体制へと変わっている。 島原・天草一揆の後、キリシタンに対する危機感を強めた幕府はポルトガル人を追放、オランダ商館を平戸から長崎の出島に移し、さらにキリシタンへの弾圧を強化した。この時期には大目付の井上政重によって全国的なキリシタン摘発が進められ、長崎奉行も井上の指示のもとで1長崎奉行所立山役所。2長崎奉行所西役所。31月15日に行われていた唐人屋敷の土神堂の前の広場での蛇踊。これに端を発したとされるのが長崎くんちの龍踊である。4唐人屋敷の図。中国や東南アジアからの人々が滞在した唐人屋敷。摘発を続けていく。その後、全国で宗門改帳を毎年作成するよう義務づけられるようになり、特に長崎をはじめ九州各地では、踏絵を実施するようになり、キリシタン取り締まりの体制が整備されていった。 島原・天草一揆を機に長崎奉行は長崎へ常駐することとなる。奉行の人数も17世紀末から2人↓3人↓4人↓3人と変動し、1715年(正徳5年)から2人となる。 先に触れたように長崎奉行は126名を数えるが、事績が分かる人物はそれほど多くない。 例えば遠山景晋。時代劇でも有名な「遠山の金さん」こと遠山景元の実父である。彼は1812年(文化9年)から約4年間長崎奉行を務めた。彼の日記によると在任1年目には長崎の秋の大祭・くんちの視察や遠見番所の見分、1813年(文化10年)に渡来した象の見分を行った様子が記される。また、立山役所の敷地内の稲荷神社には遠山が石※「かげみち」ともどじんどう

元のページ  ../index.html#20

このブックを見る